CBOMとは ― タイSECの量子リスクガイドに沿った暗号インベントリと暗号アジリティの始め方
CBOM(暗号インベントリ)の作り方と優先順位付け、業務を止めずにアルゴリズムを替える暗号アジリティを、タイSECの量子リスクガイドに沿って取締役向けに解説します。
CBOMとは ― タイSECの量子リスクガイドに沿った暗号インベントリと暗号アジリティの始め方
取締役会で「当社でまだRSAを使っているシステムはどれか」と問われたら、Webサイトはすぐ答えられても、約定確認書の電子署名やe-KYC事業者とのAPIはどうでしょうか。
タイ証券取引委員会(SEC)が2026年9月に公表した量子リスクガバナンスのガイド(タイ語)は、第5章をこの点から始め、暗号の所在が分からなければ移行計画は立てられないとしています(p.17)。本稿はシリーズの第3回で、全体像はタイSEC量子リスクガイドの取締役向け解説をご覧ください。
要点: CBOM(Cryptographic Bill of Materials)は、どのシステムがどの暗号を何のために使い、誰が所有し、誰に依存しているかを示す台帳です(p.17)。暗号アジリティ(Crypto Agility)は、サービスを止めず、そのたびに大規模な作り直しをせずに、アルゴリズムを適時に置き換えたり廃止したりできる能力です(p.20)。CBOMが直す場所を示し、暗号アジリティが業務を止めずに直すことを可能にします。
なお、ガイドは自らを初期段階の指針・助言とし、「法的な要件や規制ではない」と明記しています(エグゼクティブサマリー。ガイドからの引用はタイ語原文からの当社訳)。ガイドの要約部分は各社が状況に応じて適用する助言で、例とツールの記述は当社によるものです。
取締役会の言葉で言うCBOM
エグゼクティブサマリーはCBOMを5つのステップの2番目に置き、目的を「各システムがどの暗号アルゴリズムを使い、誰が責任を持ち、どの事業者に依存しているかを把握し、移行の優先順位付けに用いるため」としています。第5章によれば、価値は件数ではなく、リスクの所在、先に替えるもの、替えた場合の影響先に答えられる点にあります(p.17)。
暗号はWebサイト、アプリ、システム間接続、電子署名、証明書、データベース、機器、取引先のサービスに潜んでいます(p.17)。ガイドは6つの問いで網羅性を測ります(下表の例は当社による架空のもの)。
| CBOMが答えるべき問い(p.17) | 架空の例:顧客向け株式取引アプリ |
|---|
| 暗号はどのシステムにあるか | モバイルアプリと注文サーバー間の通信 |
| どのデータ・プロセスを守るか | 顧客のログインと注文 |
| 何の機能か | 鍵交換、サーバーが本物であることの確認 |
| 誰が所有者か | 取引チャネルを担う事業部門(技術面はIT部門) |
| どの事業者に依存するか | 証明書事業者、アプリ開発会社 |
| 次に何をするか | 証明書事業者に計画を確認、開発会社とテスト日程を調整 |
アルゴリズム、鍵、証明書などの技術的詳細はシステム所有者が維持し、レビュー担当者が最新に保ちます(p.17)。ファイル形式や必須項目の定めはありませんが、システム・保護対象・責任者のないアルゴリズム一覧だけでは不十分とされています(p.18)。
本番ホスト上の証明書やアルゴリズムの収集ツールを検討中であれば、料金ページをご覧のうえ、導入範囲はパートナーにご確認ください。
どこから始めるか
以下は主に第5章とエグゼクティブサマリーに基づく当社の整理です(ガイドは「手順」と呼んでいません)。
- 重要システムから始め、未調査の部分を明示する。 最初の12か月の成果例として「重要システムの暗号利用台帳があり、調査が完了していない部分が特定されている」状態が挙がっています(エグゼクティブサマリー、例示と明記)。範囲のない進捗率より有用です(p.15)。
- 自社で管理していないものも含める。 クラウド、パッケージソフト、API、決済システム、証明書事業者、ベンダー機器です。移行は対応の遅い事業者で止まりえます(p.17)。
- 複数の情報源を使う。 システム所有者、文書、探索ツール、ベンダー情報を使い、既存の資産台帳とつなげます(p.18)。単一のツールやアンケートで網羅を結論づけないこと(p.18)。資産台帳に抜けがある場合、他の情報源で範囲を確認しなければCBOMにも漏れが生じるおそれがあります(p.18。参考:まず保有機器を把握すべき理由)。忘れられたドメイン上の証明書も対象です(外部アタックサーフェスについて)。
- 少なくとも5つの要素で優先順位を付ける。 データの保護期間、事業上の重要度、量子で破られうる暗号の使用、なりすましや署名偽造のリスク、事業者や既存システムへの依存度です(p.17)。10年超のデータだけを高リスクとするような固定基準は使わず、認証・署名・取引のシステムは長期データがなくても優先されうるとしています(p.18)。データ寿命の考え方はHarvest Now, Decrypt Laterの回をご覧ください。
- 実行できるリストにする。 着手順のシステムごとに理由、責任者、期限、対応案を付けます(p.18)。
- 最新に保つ。 システム、証明書、ソフトウェア、契約の変更時に更新する仕組みを持ちます。一度作って終わりにすることは「すべきでないこと」とされています(p.18)。
暗号アジリティの実務 ― 業務を止めずにアルゴリズムを替える
NISTが標準を出したのに、なぜアジリティが必要なのでしょうか。ガイドの記載は「FIPS 203–205」のみです(p.9)。NISTのページでは、FIPS 203がML-KEM(共有秘密鍵の確立)、FIPS 204のML-DSAとFIPS 205のSLH-DSAが電子署名の標準です(名称はNISTによるもの)。一方、ガイドの用語集は追加の代替署名標準が策定中だと記し(p.38)、第6章は承認済みのアルゴリズムでも新たな弱点や要件により将来置き換えが必要になりうるとしています(p.20)。
ガイドが示すポイントは4つです。
- 特定のアルゴリズムに固定しない。 重要システムは、多くの箇所の修正や作り直しなしに暗号方式を切り替えられるべきです。取締役会は期待を示して証拠を求め、設計・開発の詳細は経営陣と技術チームが責任を負います(p.20)。アルゴリズムや証明書が固定で組み込まれた重要システムと、その改修計画の有無を問います(p.21)。
- 暗号設定の管理点を固める。 統制なき集中管理は主要な攻撃対象になりえます。権限分離、承認、ログ記録、バックアップ計画の証拠を求めます(pp.20–21)。
- 緊急時の答えを事前に用意する。 どこを直し、何日かかり、誰が承認し、何がボトルネックか。ガイドはその土台をCBOMとしており(p.20)、両者は一体で進める必要があります。
- 実際の負荷でテストし、切り戻し計画を持つ。 PQCは鍵長、署名サイズ、処理負荷が従来と異なり、ログイン時間、取引速度、ネットワーク、端末に影響しえます(p.20)。寄り付きの注文システムなら、接続できることの確認だけでは不十分です(p.21)。
ガイドは、ハイブリッド方式(従来暗号とPQCの併用)について、標準に沿い、採用する根拠がある場合に限って承認し、組み合わせ方と廃止条件を経営陣が明確にするよう勧めています。誤った組み合わせは弱点を増やしうるためです(p.21)。対象はハードウェア、ファームウェア、証明書、外部サービスにも及びます(pp.20–21)。
導入範囲をチャネルパートナーと相談する前に、デモで画面をご覧いただけます。
SDLC・調達・監査への組み込み
エグゼクティブサマリーの第5ステップは「システム開発ライフサイクル、調達、監査」への組み込みを求め、第9章のフェーズ5は「可視性を失った状態に戻らない」ことを成果に掲げています(p.28)。
| 接点 | ガイドの推奨 | 取締役会での問い |
|---|
| SDLC | 新システムはアルゴリズムを変更できるべきとの方針を示し、設計・調達プロセスへの組み込みを経営陣が確認(p.21) | 「新しいシステムや契約が、将来直すべき負担を増やさないよう防がれているか」(p.30) |
| 調達 | すべての新規調達の基準に、要件定義の段階からPQC対応と暗号アジリティを入れる(p.22)。既存事業者の評価結果をCBOMと結び付ける(p.23) | 契約更新や証明書の変更に合わせ、全面的な再調査を待たずにCBOMを更新する仕組みはあるか(p.19) |
| 監査 | 3ラインモデルの下、監査は証拠の質(調査範囲の網羅性、優先順位の根拠、例外の承認、是正の追跡)を重視(p.14) | 「CBOMの網羅性と正確性をどう証明し、システム所有者・探索ツール・ベンダーの情報を突き合わせたか」(p.19) |
付録Aは定常業務段階の証拠として、CBOMの更新記録や緊急の暗号切り替え訓練の結果を挙げています(p.32)。訓練の結果は「何日でできるか」に実測値で答えます。
よくある質問
このガイドはCBOMの作成期限を定めていますか?
このガイドは、CBOMの作成について義務としての期限を定めていません。p.3の表はCBOM作業を2026–2027年に置いていますが、これはタイ国家サイバーセキュリティ委員会事務局(NCSA)の枠組み案による国の計画枠で、各社が整合を「検討しうる」ものです(p.2)。脅威の到来時期の予測でもありません(p.3)。
テストの前にCBOMを完成させる必要がありますか?
いいえ。高リスクのシステムを先行させ、統制が十分であれば複数のフェーズを並行して進められます(p.28)。
スキャンツール1つで足りますか?
足りません。探索ツールは情報源の1つにすぎず(p.18)、ガイドは特定製品を推奨していません(p.42)。守る業務プロセスと所有者は、システム所有者から得る必要があります。
技術情報の収集にはツールも使えます。zcrXは、登録したホストとビルドシステム上の軽量なAgentで証明書とアルゴリズムの一覧を収集し、quantum-safe・ready・not readyで評価します。Agentのないホストは安全とはみなされず、「未測定」と表示されます。zcrXで見えるのはAgentを導入したホスト上の証明書とアルゴリズムです。各項目が守るプロセスと責任者の特定、Agentを入れられないクラウドや取引先システムの調査、優先順位付け、移行計画は、引き続き貴社チームとパートナーの仕事です。zcrXの測定範囲は、PQC移行準備のページにまとめています。
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証明書とアルゴリズムの一覧収集についてのご質問や、実際の画面をご覧になりたい場合は、お気軽にご相談ください。無料でご相談いただけます。zcrが提供するのはソフトウェアで、システム調査、テスト、移行の実作業はパートナーを通じて提供します。
出典
NISTの各ページは2026年10月27日に確認。ページ番号はガイドに印刷された番号で、「エグゼクティブサマリー」はページ番号のないExecutive Summaryのページ(PDFの2ページ目)です。ガイドはタイ語で、引用は当社訳です。
- タイ証券取引委員会(SEC) — 取締役向け量子リスクガバナンスとPQC移行のガイド(2026年9月、タイ語) — エグゼクティブサマリー、序論(pp.2–3)、第2章(p.9)、第4章(pp.14–15)、第5章(pp.17–19)、第6章(pp.20–21)、第7章(pp.22–23)、第9章(p.28)、付録A(pp.30, 32)、用語集(p.38)、作成に関する注記(p.42)
- NIST — FIPS 203: Module-Lattice-Based Key-Encapsulation Mechanism Standard — ML-KEM(共有秘密鍵の確立)、2024年8月13日公表
- NIST — FIPS 204: Module-Lattice-Based Digital Signature Standard — ML-DSA(電子署名)、2024年8月13日公表
- NIST — FIPS 205: Stateless Hash-Based Digital Signature Standard — SLH-DSA(電子署名)、2024年8月13日公表